幽霊はみんなブルベ冬だよ

2021/11/20

 

 この土日が、あなた方の最後の秋となるでしょう、と気象予報士がカメラ目線で述べた朝のニュース映像を、裁判所を、三犬の分立の編集するテレビパーソンが国民の妹だった。

 衝撃映像100連発番組の92発目を、死ikTokへ、漏洩しないでください。っていう、ラジオネームからのおハガキ。かつて僕だった細胞分裂の実況中継が、日に、日に、増していく孤独のブルベだから。

 狂(クル)ベ冬。

 だとしても、あの人の肌は死人のようなパーフェクトホワイトベースだった。参列人の全員が、もれなく、嘘泣きだった。

 

 帰り道、銀木犀の咲き乱れを見た。不法侵入ばかりの、人生、だった。し、恥も多いし嘘ばかりの履歴書だ。

 え、だって本名が猫本人麻呂(ねこのもとのひとまろ)っていうのは絶対に虚偽記載じゃないですか。学歴の、あ、殺歴っていう欄もありますね大学卒業年月日って、今日になってるけど、俺?

 俺が、記載の、被害の、一番手?

 そっかぁ。ふふ。

 いままでありがとうねコーポレーション自己都合退職、または、備考欄に回りくどい謎解きゲームとして描かれた真犯人の似顔絵を採取。午前三時二六分。岬にて。現行犯愛撫。石膏。本当の意味で向き不向きのある懲役。

 

 君がナニべだろうとどうだっていいよ。

 人間なんて燃やしたらみんなホネベだから。

 

 記述する私と記述される私が同一人物だとしても、記述される私は必ず過去で、記述する私のいる現在には絶対に追いつくことができない。一方で、記述する私はあらかじめすべてを知っているにもかかわらず、あえて起点までさかのぼり、記述されるかつての私に憑依して、無知のふりをする。そのような作為なしにフィクションは立ち上がりえない。

 そこに小説の欺瞞がある。体験済みの過去しか書くことができないのに、さもそうでないかのように文中で振る舞いながら、それでいて、記述する私が架空の幽霊であることを、ゼロ地点で俯瞰する作者も、読んでいる者も、無意識のうちに承知している節があるのだ。

 そういう、ある種の高度な合意形成のもとで、小説は成り立っている。貨幣経済の成立条件がある種のストーリーに対する信頼であるのと同様に、小説の成立条件が「そうだと知っていながら、あえて見て見ぬ振りをすること」だとしたら、僕が小説を書いているとき、そしてあなたがそれを読んでいるとき、僕たちは、作中人物たちと同様に、透明な、幽霊になっている。眼だけになる。あるいは、脳だけになる、肉体は一時的かつ主観的には完全消滅している。

 だから、作者は作中人物を「作る」のではなく、始めから存在しないにもかかわらず「殺し」、そして「成仏」させる。みなが幽霊になる。ページを開くと同時に、魂だけが宙に浮いている。あなたは何度でも生き死にができる。

 

 

 

進捗の堪えられない歪み

2021/11/9

 100円ショップって、あるじゃないですか。それの、レジの、写生大会が開かれた冬の始まりの諸島だった。ナイフを突き立て、豚肉の、塊の切り分け。それをしたかった100円だ。である10円は、10銭の、何倍かである数学に贈り物を隠蔽する布を併せ、220(ニーニーマル)事件です。そのとき、乳幼児は、にこやかだった。雨に濡れ健やかだった。

 原稿用紙246枚分の I love you があるとしたら、えーっと、無駄。口頭で伝えろと思う。し、肉体がなくても愛し続けろとさえ、思った。僕が、というより、人物が。架空でありながらどこかに実在するであろう彼女であったり彼たちが。そうした。思ったことを描き写す方式としての小説だった。を、作った。作る。これからもそうする。たぶん。きっと。

 物語の終わりを決めるのは作者ではない。宇宙だ。宇宙の法則がそれを決めるとき、前兆は、地下に潜んでいる。初期微動継続時間は動物だけが感じている。うさぎが耳を立て、カエルが下顎の皺を小刻みに震わせるとき、人間のみが、鈍感だ。皮膚はセンサーの役割を果たさない。

 日々、進捗がぶれのない比例直線を描くことはまずありえなかった。それは波打ち、惑い、蛇行する。できる、できない、間に合う、間に合わない、一日ごとの花占いはその日の進み具合によって刻一刻と状況を変えていき、情緒を不安定化させる。一日単位ならまだいい。ひどいときは、一時間ごとに、いや、10分ごとに不安と安心が心臓を脅かし続けるのだ。

 雛形を組み立てるための設計が躁だとしたら、それを仔細に検分し、修正していく段階は鬱だ。人格はそのときどきで二重に分裂する。二人一組ならぬ一人二役一組で、弁証法的アミの目をかいくぐった先にしか、鑑賞するに堪えうる作品は生成されえない。

 ここから一ヶ月、陰鬱な、かつての見聞きに堪えない思春期を自己採点させられるような、作り直しの時間が始まる。そのとき、作者は否応なく自らの拙さを、かの有名なルドヴィコ療法によってまぶたをクリップで固定されたマルコム・マクダウェルのように、直視し続けなければならないのだ。

 もちろん、単なる苦役の旅ではない。苦役の中にこそ悦楽が潜んでいる。悦楽にはコストがかかる。わざわざ遠回りしてでも苦しみを求めるのが、人間の愚かさであり、豊かさであるのだ。

パニーニの神様

2021/11/2

 あ、匂いしてきた、と言うと、数秒後に必ず金木犀が現れる。そういう散歩。の、やり方はありますよね考え方次第で。だからそうした。というより、結果的に、そうなった。かつての日々。ひび割れた鏡の中の日常。

 夢の中で再就職をした。別れたあの人のメールが長文だった。そのような苦々しい朝に、射精でも月経でもない第三の生理現象が訪れて、花が、茎から、爛れたのだ。

 花は満開だった。

 血しぶきのようにハイファイだった。

 内面描写について考えていたとき、異なるのは、スピードであることに気づいた。現実は速すぎる。そして一秒という単位はあまりにも定められすぎている。歪曲しない。次の一秒は、必ず一秒後に訪れる。で、あるからして、現実には、内面描写がすべり込めるだけの余白は存在しえない。

 というより、あるにはあるのだが、そのとき各人が思い浮かべる文章は小説の文章の形をしていない。そういう意味で、地の文は特殊だ。村上龍が『空港にて』のあとがきで書いていたところの「時間を凝縮する手法」が、基本線になる。『空港にて』の各編は大袈裟に誇張された形でそれが行われているのだが、結局、あらゆる小説において同様のことが行われているのだ。多かれ少なかれ。

 現実の、というか、物理的時間法則のもとで5秒間とされている時間に、400字分の内面描写は、過剰だ。漏れる。パニーニにかぶりついたら両脇からはみ出したとろけるチーズのように、はみ出す。小説はそれを何食わぬ顔で行っている。行うための、場である。「時間の凝縮」。はみ出しているのに、さもはみ出していないみたいな顔で誰もがパニーニを食べている世界。それが小説だ。

 むしろ、現実の速度に合わせて小説を書くと、破綻する。地の文が現実に間に合わない。ずれている。そのずれこそが、小説が小説であるための、独自の技芸であるための、傷だ。傷が差異を作る。差異は必ずしもポジティブな結果をもたらすとは限らないけれども、人間が必ずしもポジティブでないことを、人間は、知っている。動物だって、知っているさ。愛玩動物なら特にね。

 君に傷はあるか。あの人の傷が、君に見えるか。僕は君の傷を見逃してはいないだろうか。

 凝縮された時間が散弾のように炸裂し、現実に穴を空ける。現実が傷ついたとき、あの人の傷の具合はどうだろうか。小説の中で架空だったあの人は、現実に知っている/知っていたあの人に、酷似している。それは偶然か。たぶん偶然だろう。というか、偶然でなかったことなど、あったのか。いままで。ないよ。あったとしたら、おめでとう。君は必然の神様になれたんだよ。

 この人はあの人に似ている、というより、そのものだと思う瞬間がある。割れた鏡に映るあの人は複数存在していて、そのうちの一人が小説の中でセリフを話している。しかし、ずれている。だからあの人ではないとわかるのだが、夢の中でこれは夢なのだと自覚できないもどかしさに似て、あの人があの人であることに私が気づくのは、すべてを読み終えたあとだ。

 そういう小説を書きたい、と思っている。

 

 

 

約束された樹木のために

2021/10/28

 散歩をしていたんですよ。神社の参道というよりは、どちらかといえば、宇宙規模の、産道で? とはいえ三歩だけです。ほとんど動けなかったから。

 蝿が一匹と蚊が二匹いて、ダンジョンで、引き連れていた。パーティーだった。街はエンカウントのおそれがありながら夕暮れに濡れている交響楽団。ソバージュのようだった、地図記号で。

 驚異、的な体長を持つ犬が地下鉄の入口を占領 in the noon。だった。斬首だった。ぬ〜んとか、ぽや〜んとか、そういうのはもうやめにしませんか。死人が出ているんですよ。とかなんとかいう、運動の、先駆者=加害者は、じゃなくて、の、において、であるからして、ははっ、ちがくて(笑)、あのー(笑)、ガジュマルのように拗じられて損壊した陰茎だった水辺の二人きりを。試して。

 揺れないで。

 いまはまだ。

 この生殖が終わるまでは。

 

 共感と驚異、について書き始めよう、っていうかいま実際に書いてみたのだがうまく書けなかったので全削除した。どうでもいいことだ。そんなことは。もっとほかに言うべきことがある。はずなのに、書いているうちに言うべきことなんてなにもない気がしてくる。ナイキが。ない木て(笑)。あるわ(笑)。え?(笑)いや、そこにあるじゃん。庭に木が生えてるでしょうが。ほら。……あれ?

 

 なくなっている。

 

 ある木は始めからそこにあるし、ない木はそこに存在しないにもかかわらず木であることを強いられている。透明な木は、見ている人がそこにあると信じることで不透明になった。それを木と呼ぶことに必要な最低条件は、木であることではなく、信仰だ。信仰は天啓によって授けられる。天啓を樹木にするための人生を、もし、僕たちが生きているのだとしたら、鳥は、枝葉で休めばよかった。実をついばめばよかった。そしてそれらは糞をする。前人未到の海洋を越え、ブラジルの首都から北北東へ300キロほど離れた森林地帯で、天啓によって授けられた木の実は次の季節を待つことなく芽吹くだろう。そうなれば、倦むこともなくなる。生まれたことを悔いるしかなかった世代にもやがて、恩恵が訪れる。

 ある木よりない木のことを考えてみて。それはそこにあるから。じきに見えてくるから。

 

 

 

ママ、もっと鏡見た?

2021/10/24

 「あなた、僕の足を見てらっしゃいますね」とシーモアに言われた婦人は驚き、「何ですって! 私は床を見てたんですよ」と答えるのだがこれは変人に絡まれてヤバそうだからとっさに嘘をついた、ということではなく、本当に見ていなかったんだと思う。婦人は言葉通り、マジで、一片の曇りもない眼(まなこ)で床を見ていたんだと思う。エレベーターに乗っているとそういうことって、あるから。一点を凝視する方式の時間の潰し方って別に普通だから。その直後、シーモアは拳銃で自分のこめかみを撃ち抜く。なぜか? 足を見られたからだ。実際は足を見られたからではないのだろうが(フィクションに「実際」もクソもないのだが)、足を見られたからシーモアは死んだ、と、そういうふうに恥も外聞もなくおおっぴらに言うことだって、できる。僕たちは言おうと思えばなんとでも言うことができる。「実際」に言わないというだけで、誰しもが。

 昨日、今日はバナナフィッシュにうってつけの日だと思った僕がそこに実在したので、非実在人間こと僕じゃないほうの僕は、自転車で街を走っていた。ら、すれ違う人々がもれなく僕のふくらはぎから太ももにかけての、というよりは膝、の、内側の靭帯、をじろじろと見てきたので「あなた、僕の(透明の)靭帯を見てらっしゃいますね」と逐一声をかけてみました。優しかった。みんな、本当に、親切だった。ほとんど人間に近かったように思う。例えば信号待ちだった原動機付き青年などは、以下のように、言った。「そうですよ。あなたは、素敵な、人体ですよ」青年は判で押したようだった赤い夕焼けの、山ぎわの、パチンコ屋は縦方向に違法建築だった。横方向は、アレだ、あの〜マクドじゃなくて、モスと、ココイチの、耐震偽装か……(笑)。うん(笑)。靭帯は、すっぱりとお刺身になった。甘酸っぱく、レモン煮にも合いそうだった。ニモにも。にわにわにわにわとりの断首後の数秒の走行は血しぶきか? イエスかノーか、半分か? イエスの人はしゃがみ、ノーの人は括ってください。腹を。じゃなくて首を。足首のアキレスのそれを。

 視線恐怖症っぽい症状は昔からあって、ここ数年、悪化している。リハビリが必要なのは明らかだけれども、疫病のせいでさらに強まった外出困難感を解きほぐすには、しばらく時間がかかりそうだ。

 

 

 

焼け石に星

2021/10/21

 日記、と一口に言ってもただ事実を書けばいいわけではなく、特にいま書いているこれはこうして公開しているわけだから、作為そのものだ。そもそも、一分の隙もない完全ノンフィクションとしての日記、は、言語の持つ機能不全性からしてありえない。見たものをありのままの姿で、写実主義とまではいかないまでも自然主義の範疇で、文字に起こせると考えているのならそれは大いなる思い違いだ。

 日記を公開する、ということの気恥ずかしさに無頓着であることなど到底できそうもない自意識の持ち主たる私(わたくし)が、あえてそれを加速装置として利用した結果生まれたのがいわゆる異常日記と呼ばれる方式で、極端なことを言えばあれらは1パーセントの事実と99パーセントの粉飾によって練り上げられた偽物の塑像だ。

 ここで言う気恥ずかしさ、とは言い換えれば自信のなさ、でもあるわけで、ありのままの自分を受け入れてもらえるはずがないという諦め、というより、僕が僕のまま文章書いても読む価値ないっていうか元々の人間がつまらないんだからそいつがそのまま書いてもA=BそしてB=CならばA=C、要するに、そういうことですよね?的な、自虐に見せかけた超真正かまってちゃん的ひねくれ、があるから、どうしてもパフォーマティブになる。素の自分を隠蔽するための言語使用になる。魅せるための日記ならば、事実である必要がなくなる。

 まあ、それはそれとして、日記を書くのは面白い。これは本当のことです。今日はスーパーマーケットへ買い物に行った。寒いから体の温まるものがいいと思って、焼け石を、買いました。買いマスター。それを今夜飲み込むのだ。熱々のそれを。なんていうふうに書くとほーらまた始まった、照れ隠しのためのボケはいいから普通に書いてくださいよ、あなたのいつもの生活を、いつもどおり、普通に書けば、いいんですから。つまらないなんて言う人はいませんから。と、言ってくれたはずの人を僕は焼け石に水だった。涙では、なかった。鮮血だった。

 ところで、ひきこもり、って言葉あるけど、むしろ、ひきこもられている。ので、「ひきこもられり」だ。正確には。ラ・リ・ル・レ・ロ。そういえば、「な・ま・し・び・れ・な・ま・め・ま・い」っていうゆらゆら帝国のライブアルバムがあって、第一次ひきこもり期(15歳夏〜16歳冬の半年ほど)によく聴いていたなあ、といまふと思い出した。別に、こういうのでいいんですよね。日記って。その時々に思ったことで。歪曲したり粉飾したりしなくても。

 星が降るらしいよ。今夜。

 あなたが地球人なら、見られるチャンス、あるかもね。

ピンぼけ体操第一

2021/10/14

 血行の、改善体操第一を巡る狂想曲にはDa Capoがなかった。それが、首の痛みだったようなものだ。みたいに、言った。発言した物言う株主だった協会のプラティ煮。ちょ待てよ。煮りゃいいってもんでもないだろうがよ。なあ。おい。……おーい。

 玄関のチャイムが鳴り、猫の餌を与える番ですよ風の従業員たちがメントスを誤ってコーラに投入しないよう必死。震えている。僕が一歩でも動いたらドミノは倒れるし、ジェンガは、崩れそうだった君の乳房の片方をピンぼけで捉えていた。

 午後は、録画した殺害予告を執拗に観る。0.5倍速で、何度も、何度も。予告対象である自分とはまったく似ても似つかない警察署作成の似顔絵の、舌の(笑)、色彩が(笑)、生きとし生けるもののそれじゃないですよ(笑)。だから僕たちは子どもを持たなかった。胎児を、フォルダから、Delete&Scrap&Buildした。体外射精で。ヒヨコ式分別法で。

 普通はこう来たらこうなるからそれを裏切ってこうしてみた、けど、裏切ることそのものがもはやひとつの裏切らなさとしてベタの構造へと吸収されつつある昨今、裏の裏は表、的な定説を疑い、超越した場所で、裏切らない裏切り、または、裏切った裏切らなさ、等々を鋭意開発していかなければならない。新しければ醜くてもいいということにはならないし、美しさにかまけて古さに目をつぶるわけにもいかず、簡単なら始めから試みていない、うまくいかないからこそ試してみる価値があるのだと頭では理解しているものの、やはり管啓次郎風に言うならば、技芸の道は長い。長すぎて今生では終わらなそうだ。