約束された誤読、意図された誤記

 しばらく日記を書いていなかった。椅子を新しくした。気温が上がってきて、気づいたら夏になっている近未来。もうすぐそこだ。生活、という死ぬために生きている時間の一方的な流れを、無意識のうちに是認している。その怖ろしさは夜に顔を覗かせる。鏡の中の自画像に語りかけるとき、それは理想的な他者として現れる。自分自身と性交する夢を見た朝。唾液に含まれる苦みを、排水溝へ流した。隠した。

 葛藤のない物語を書く。葛藤のない人間は存在しない。が、葛藤を葛藤のまま描くのでは不十分だ。というより、不必要だ。それがそのようにあることをそのままの現象として描くこと。言葉にしてみると簡単だが、案外難しい。理由なき身体が立ち上がったとき、それは理解不能な他者との「出会い直し」になる。

 気づいたら産まれていた。誰しもが。ならば生きることもまた、「気づいたらそうしている/いた」の渦中として描かれるべき、なのか。葛藤なき淡麗な機械としての人間。しかし、一つ一つの行為はそのように読み取られない。物語が常に「約束された誤読」を引き起こす疾病だとしたら、作者もまた「意図された誤記」の発生源たる病原体として、明後日の方向へずれ続けるしかなくなる。明日ではなく、明後日へ。昨日のようだった今日を明後日へと放擲する。一段飛ばしで。桂馬のような動きで。