佐川恭一『アドルムコ会全史』感想

 佐川恭一の新刊、『アドルムコ会全史』。今作も随所に佐川節が炸裂する傑作である。以下、感想を述べていく。

 

 (ネタバレあり。ご注意ください)


「アドルムコ会全史」
 表題作。数ページごとに思わず噴き出してしまいそうな(実際に何度も噴き出した)フレーズがそこかしこに散りばめられている。岸田のもとにニューヨークヤンキースのスカウトが訪ねてきたところや、ホテルのフロントが全盛期の西武カブレラ似の男であるところなどは、不意をつかれ、しばらく笑いが止まらなかった。岸田の「なんの練習もしていないのにいきなり剛速球が投げられる」というくだりは過去作「ダムヤーク」の中にも登場するのだが、手を変え品を変え繰り出されるためまったくマンネリを感じさせないどころか、佐川作品にお決まりの鉄板ギャグへと昇華されている。毎回新鮮な気持ちで笑ってしまう。
 全篇を通じて超絶ナンセンス展開、不謹慎なブラックユーモア、不条理ギャグにまみれている本作だが、もちろん佐川作品の魅力はそれだけにとどまらない。野球や美術など数々の驚異的な才能を示しながら、本人はまったく興味を示さずただただ公務員試験合格という対象xに向かって没頭する岸田が「おれは人間には欠乏が必要だと考えている」と語りだす場面などに代表されるように、本作には随所に「生きるとはなにか?」「人間とはなにか?」という普遍的なテーマに関する作者の鋭い考察と社会批評が散りばめられている。筆者は佐川恭一の作品を読んでいるといつもビートたけしの「振り子理論」を思い出す。めちゃくちゃふざけられるやつだけが、めちゃくちゃな真面目をやれるのである。

 

「キムタク」
 題名で爆笑。朝起きたら○○になっていた、という定番の変身譚には二種類あって、一つは有名なカフカの『変身』タイプ、もう一つは、○○になったことでなにもかもがうまくいき、人生絶好調、仕事も恋愛も思い通りにいってバラ色の日々、しかしそううまくいくわけもなく、最後に手痛いしっぺ返しが……という筋書きが定跡であるように思う。本作の場合は、その○○が「ロング・バケーション(またはラブ・ジェネレーション)の頃のキムタク」であるというZ世代にとってはなんのこっちゃな設定(ちなみに筆者は佐川さんとほぼ同世代なのでロンバケ(ラブジェネ(またはビューティフルライフ))の頃のキムタクが死ぬほどかっこいいことは理解できる)と、キムタクになったことですべてがうまくいくかと思いきや、逆に「ロンバケ時のキムタクなのにモテない」という自らの内面の劣等を突きつけられつつ、最後に堀越のり的なささやかなる希望を期待させる、という筋書きになっており、定跡を裏切る巧みな構成と言える。個人的なことで言えば、筆者も堀越のりのことは好きだった。中3のときに付き合っていた彼女(ゆうこちゃん)に似ていたからである。


「パラダイス・シティ」
 過去作「舞踏会」のスピンオフのような(あるいは「パラダイス・シティ」のスピンオフが「舞踏会」なのかもしれない)ディストピア群像劇。なにが悪でなにが正義なのか? それは立脚する視点によって姿かたちを変えうるものなのではないか? 誰もが一度は思いを巡らせたことのあるテーマを過剰な戯画化によって描き出した怪作である。K市役所の幸福税課を舞台に、二四名の課員たちの欲望や思惑が複雑に絡み合いつつ、交錯する。しかしそれらは決して表立って口にされることはない。登場人物の多くは清々しいほどのクズばかりで、読んでいて苛立ちを覚える場面ばかりである。ただ、描かれ方が過剰であるだけでシンパシーを覚える箇所も多々あり、簡単に「クズ」とばかり呼べないのもまた事実だ。もちろん、それらの人物造形には意図がある。悪趣味な作者がわざと読者を苛つかせようと思ってそうしているのではない。苛立ちは、ガソリンになる。読者が思わずページをめくってしまう負の力を駆動させるための燃料として、それらは機能する。我々読者はその陰鬱な負の力に抗うことができない。
 終始観察者の立場として冷静な目で職員たちを眺める篠原課長の視点が不気味で、なにか黒幕のような立場なのではないかと読み進めながら考えていた。それは終盤の「私がS評価を付けたのはあなただけなんです」の一言に集約され、まるで炎症を起こし赤く膨らんだ出来物が破裂し、大量の膿が嫌な臭いを放ちながら飛び散ったかのような黒いカタルシスをもたらす。クズはみんな射殺された。そして唯一の良心であった川添主事は救われた。が、果たしてそれは本当に正義なのか? 民主共栄党の目指す道徳を主軸としたユートピア構想は人間を真の幸福へ導くのか? もちろん、本作における結末は作者による痛烈な皮肉にほかならない。
 確かに、ムカつくやつは死んでほしいし、いっそ殺してしまいたい、と思う。誰しもが思っている。ただ、その願望があまりにも簡単に成就し、バタバタと人が殺されていく世界を心の底から求めているかと言えば、決してそうではないはずだ。もしそういう世界が実現したとしたら自分は川添主事のように生き残れるだろうか? 答えはノーだ。処刑される側も処刑する側も、みな同じような顔をしている。はたから見ているぶんには見分けがつかない。だからこそ、正義と悪を単純に区分けすることは怖ろしい。本作は、そのような二項対立図式に凝り固まりがちな現代への、研ぎ澄まされた先鋭的問いかけなのである。

 

「夏の日のリフレイン」
 原題の「男根のルフラン」から、本書に収録されるにあたり「夏の日のリフレイン」と改題された。ルフランはフランス語で「refrain」つまり英語の「リフレイン(refrain)」(繰り返す)と同じ意味の言葉である。タイトルが示す通り、このフラッシュフィクションは循環構造を持っている。同じことの繰り返しが、A、Aダッシュ、Aダッシュダッシュ、と続いていくことを示唆しつつ結末を迎える。夏のある一日(「エンドレスエイト」を思い起こさせる)のその後の展開は、物語の外部へと「ひらかれている」。……な〜んて分析をすること自体が不粋で、なにも考えずガハハと笑って楽しめる(いい意味で)馬鹿馬鹿しい作品である。

 

ブライアンズタイム
 始めから終わりまで一切改行なしのスタイルは過去作「受賞第一作」を思い起こさせる。こういった作品は往々にして場面転換に無理が生じやすいものだが、そこはさすが佐川恭一、なめらかな筆致でシーンとシーンを繋ぎ合わせ、違和感なく見せるのが抜群に上手い。本作で最も特徴的な要素は「関西弁」と「登場人物の名前」の悪魔合体である。筆者はこれを「ホットペッパー方式」と名づけた。かの有名なアテレコCMだ(ご存じない方は「ホットペッパー CM」で検索してみてください)。バリバリの外国人の名前を冠した登場人物がコテコテの関西弁を話す、という方式は過去作「マルドレットの人々」にも見られるものだが、本作はさらに完成度が上がり、洗練された仕上がりになっている。中でも、ショーン・ジェイコブズ→ショー平、マコーマック・マクシミリアン→マコっちゃん、など、日本語式に改められた愛称は出てくるたびに声を出して笑ってしまった。芸が細かい。本当にいろいろな角度から楽しませてくれる。
 「ホットペッパー方式」も相まって物語全体がコントのような雰囲気を帯びる本作だが、いわゆる非モテ問題やパワハラ問題や介護問題など、内容にはシリアスな側面も多い。そこで繰り広げられるのは、言ってみれば人間の持つ「多面性の連鎖」のようなものだ。人間はさまざまな側面を持っている。ある一つの視点から見た真実が、別角度から見たときまったく違う様相を呈している、そしてそれらはグーチョキパーの三竦みのように、ある人にとっては善だがある人にとっては悪となりうる性質を秘めている。佐川恭一はそのような「多面性の連鎖」を、多くの登場人物を複雑に絡ませながら一つの完成した世界として描こうとする。あれだけの人物を登場させながら破綻することなく話を成立させ、さらに鋭く社会を批評しつつ、それでいてセンスの塊のようなギャグをこれでもかと連発してくる本作は、もはや芸術の域に達していると言っても過言ではない。

 

 以上、拙いながら『アドルムコ会全史』の感想を書いてみた。いまはまだ「テレビでは一切見かけないけれども地下ライブを打てばチケット即日完売のカルト芸人」みたいな立ち位置の佐川恭一だが(失礼な言い方ですみません)、昨今の飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍を見るに、ノーベル文学賞を受賞する日もそう遠くないのかもしれない。
 佐川さんのこれからのご活躍を心より祈念しています。