アバターの静止する不自然な数秒

2021/12/20

 

 肌を偽装する。そのたびに、思い出す駅は無人だったような気がするのだ。

 無尽液。

 それは滴りの途上にあって、第二次性徴を大事に成長と読み違えた国語式朗読タイムを、舞台にした、演劇の、タイトルを公募するならまだしも人工知能に頼り切りなんて愛が感じられないよ。

 真実の愛は液の分泌量に比例している。

 って、

 君は言うけれどそんなの大嘘だ。

 だって、大腸を、切除された曽祖父は笑顔のまま苦しんでいたのに窓からの光はいつだって、

 あぁ!

 いつだって!

 あんなにも!

 

 Hi-Fiだった。

 

 湖は、

 ざらっと、

 低画質。

 

 (注:よく掻き混ぜてくださいね(^_^;))

 

 ぼ、僕を嘘つき呼ばわりする曇りガラスの内部に秘匿された伝説の子宮が偽りであると、静脈を流れる濁った赤黒いそれをカサカサの性器に塗りたくらない保証なんてどこにもないのだと、「私たち、いつから、こんな疑似ポルノだらけの街並みを平気で素通りできるようになったんだろうね?」

 

 

 いままで、描写しようとすると頭の中に描いた景色をそのまま言葉へ移そうとして、でもうまくできなくて四苦八苦していた。しかし、前作の作業過程である気づきがあった。つまり、登場人物の主観がまず先にある。その主観=視点を通じて、物事を言葉にしていく。

 例えば壁があるとする。壁紙には模様があって、質感があって、温度感とかそういうのがある。乳白色で、ざらざらしていて、冷たい感じがする、云々。それを、なんというか客観的事実として捉えた上で、言葉にしようとするとうまくいかない。まず登場人物がそれを見ている、という作者と作中人物の関係性を忘れないこと。壁を見ているのは、作者である自分ではなく、登場人物なのだ。アバターとしての登場人物に乗り移った自分がそれを見るとき、言葉は純粋な作者のものではなくなる。アバターがまずなにを思い浮かべるか。そこを立脚点にすれば、言葉は自然と連なってくる。

 前作はそれが一文ごとにできていたから、あれだけの量を二ヶ月という短期間で仕上げられたのだろう。というより、世間の書き手らは自然にそれをしているのだ。気づいていないのは自分だけだった、という単純に自らの愚かさに気付かされただけという気もする。

 で、その上で物語を進行していったから、前作はそこまで壮大な話でなくとも300枚近くまで達した。一つ一つの描写がしっかりしているから、そう簡単に話がぽんぽん進まない。そう、そうだ、そこもまた一つの発見だった。物語内と現実では秒針の進み方が違う。それもまた、当たり前だけどいままでおろそかにしていた部分だ。

 小説は映画のようには時間が進まない。小説内の一秒は、現実の一秒とは幅が大きく異なる。会話と地の文の量のバランスも、その気づきによって自然と改善された。いままでは作中で長話が続いても気にならなかったが、描写がしっかりしてくるとある特定人物の独演会的な長広舌には違和感を覚えやすくなる。途中に地の文を挟むことで、小説内の時間進行は安定する。むしろ、あえて時間を鈍化させることで、小説になる。

 二人の人物が会話していたとして、一人の発話にもう一人が応答するまでの時間を考えてみる。それは時間にして0コンマ数秒の世界だが、小説では地の文が挟まる。そこで相手の表情だったり、周囲の環境、温度、風の感じ、あるいはなにか音がするとか、匂いが漂ってくるとか、相手の発話を受けて人物がなにを考えたとか、そういうことが挿入される。

 でも、現実は違う。地の文を読み上げているあいだに、すでに相手の発話は始まっている。そんなことを考えている暇はないはずなのに、小説ではそれが当然のこととして受け入れられる。

 「あとから振り返ってみれば確かにそういうことだった」を、あたかも「リアルタイムでいままさにそうである」のように見せている。それが小説という形式の特異性なのだ。古今東西どの小説でも、それは自然に行われている。

 「私、そんなこと知らないよ」キョウコは眉間に皺を寄せ、唇をほとんど開かずに言った。私は、予想していた答えとは違うキョウコの言葉を聞き、背中に、果汁100%ジュースみたいな粘り気のある汗が流れるのを感じた。「知らないわけないでしょ。じゃあ、なんで、あのときキョウコは……」それ以上、言葉が出てこなかった。キョウコは俯き、じっと足元を見ていた。干からびたミミズの死骸に蟻が群がっていた。

 例えばこういうシーン(カット)があったとする。単純に考えれば、「キョウコ」の発言から「私」の発言までに流れた時間は、どれほど長く見積もっても数秒程度だろう。5秒あればかなり長いほうだ。

 その長くても5秒程度の時間に、挿入された地の文を通常のスピードで読みきれるかどうか。いま試しに読んでみたところ、11秒かかった。少し早めに読んでも8秒程度はかかるだろう。つまり、そういうことなのだ。

 小説における地の文の描写を一字一句そのままモノローグとして挿入した映画、といえばわかりやすいかもしれない。そんなものがあったらテンポが悪すぎてとてもじゃないが観ていられないはずだ。しかし小説内ではそれが当然のこととして成立していて、逆に地の文の描写が少なければイメージは喚起しづらくなり、作品そのものがやせ細ってしまう。