パニーニの神様

2021/11/2

 あ、匂いしてきた、と言うと、数秒後に必ず金木犀が現れる。そういう散歩。の、やり方はありますよね考え方次第で。だからそうした。というより、結果的に、そうなった。かつての日々。ひび割れた鏡の中の日常。

 夢の中で再就職をした。別れたあの人のメールが長文だった。そのような苦々しい朝に、射精でも月経でもない第三の生理現象が訪れて、花が、茎から、爛れたのだ。

 花は満開だった。

 血しぶきのようにハイファイだった。

 内面描写について考えていたとき、異なるのは、スピードであることに気づいた。現実は速すぎる。そして一秒という単位はあまりにも定められすぎている。歪曲しない。次の一秒は、必ず一秒後に訪れる。で、あるからして、現実には、内面描写がすべり込めるだけの余白は存在しえない。

 というより、あるにはあるのだが、そのとき各人が思い浮かべる文章は小説の文章の形をしていない。そういう意味で、地の文は特殊だ。村上龍が『空港にて』のあとがきで書いていたところの「時間を凝縮する手法」が、基本線になる。『空港にて』の各編は大袈裟に誇張された形でそれが行われているのだが、結局、あらゆる小説において同様のことが行われているのだ。多かれ少なかれ。

 現実の、というか、物理的時間法則のもとで5秒間とされている時間に、400字分の内面描写は、過剰だ。漏れる。パニーニにかぶりついたら両脇からはみ出したとろけるチーズのように、はみ出す。小説はそれを何食わぬ顔で行っている。行うための、場である。「時間の凝縮」。はみ出しているのに、さもはみ出していないみたいな顔で誰もがパニーニを食べている世界。それが小説だ。

 むしろ、現実の速度に合わせて小説を書くと、破綻する。地の文が現実に間に合わない。ずれている。そのずれこそが、小説が小説であるための、独自の技芸であるための、傷だ。傷が差異を作る。差異は必ずしもポジティブな結果をもたらすとは限らないけれども、人間が必ずしもポジティブでないことを、人間は、知っている。動物だって、知っているさ。愛玩動物なら特にね。

 君に傷はあるか。あの人の傷が、君に見えるか。僕は君の傷を見逃してはいないだろうか。

 凝縮された時間が散弾のように炸裂し、現実に穴を空ける。現実が傷ついたとき、あの人の傷の具合はどうだろうか。小説の中で架空だったあの人は、現実に知っている/知っていたあの人に、酷似している。それは偶然か。たぶん偶然だろう。というか、偶然でなかったことなど、あったのか。いままで。ないよ。あったとしたら、おめでとう。君は必然の神様になれたんだよ。

 この人はあの人に似ている、というより、そのものだと思う瞬間がある。割れた鏡に映るあの人は複数存在していて、そのうちの一人が小説の中でセリフを話している。しかし、ずれている。だからあの人ではないとわかるのだが、夢の中でこれは夢なのだと自覚できないもどかしさに似て、あの人があの人であることに私が気づくのは、すべてを読み終えたあとだ。

 そういう小説を書きたい、と思っている。