最後の故意

最後の故意だった。

最初の、

真犯人候補はみぞおちで会いたい。

水際。

コッテコテの金属の、珠の、芯みたいなひらひらを複数個集めたい。

なんて嘘。

おおよその目安はついていた。

アリとキリギリスなんて嫌だ。

苦(クッ)。

冬は錯覚のような怠惰。

透明な胎児。

アル中のホクロ。

家に入れてあげるね。

私の、

魂を、

握らせてあげるね。

ほら。

わかる?

ずっと前からこうだったんだよ。

知れよ。

絶対に、

耳を貸さなかったのはお前のほうだろ。

 

髪を乾かさなかった。

夜が、薄荷になった。

Abu Dhabiの高層のビル群はstoic。

だ・か・ら(笑)

スナイパーライフルで四六時中こめかみやら眉間やら狙われてる気分だ、つってんの(笑)

知れよ。

私の九分九厘を。

ツベルクリンを。

砂州

佐々letter。

最も絢爛だった思い出を手紙に。

無自覚な加害を、早々に、rejection。

故意だった。

言い訳くらい、いつだってできると思っていた。

鱚。

ミルフィーユみたいな。

渇いても我慢した三ミリの接近の日。

思い出せないあの日。

霊のいる場所

 夜。一一時四二分。自転車を漕ぐ。恋人の家から帰る。ガードレールの脇に花。今日もある、と思う。この前もあった。その前も、その前の前も。新しく、鮮やかで、それゆえに場違いな花束。外灯に照らされ、やけに明るく見える花びらの発色。

 半年ほど前、立て続けに二件の死亡事故が起きた。片側二車線道路。二つの現場は数百メートルしか離れていない。どちらも夜中だった。若い人が車に轢かれて死んだ。

 花束。酒の缶。清涼飲料水のペットボトル。雑然と積み上げられた供え物の山。二つの現場のうち、一方はすぐに途切れた。歩道の血痕だけが残された。生々しい血の跡はいまもなおどす黒く染みつき、事故の悲惨さを無言のうちに語り継いでいる。

 もう一方の現場には、半年経ったいまでも献花が続いていた。誰かがそこに通い続けている。一人で。いままさに茎から切られたばかりの、新鮮な花束を抱えて。

 骨は墓に納められたはずなのに、なぜ? 僕はそこを通るたび、霊のいる場所について考える。私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。昔、そういうヒット曲があったことを思い出す。

 半年間、花を手向け続けたその人もまた、霊のいる場所について考えたに違いない。墓は確かに堅固だ。動かない。いつもそこにある。だから、誰もが訪ねることのできる慰霊の標しとなる。世代を超えて霊を慰めることができる。

 ただ、変な言い方になるが、かつて生きていた故人が最後に息をしていた場所は、間違いなくその人が死に至った場所、つまり今回の場合で言えば事故現場だ。墓ではない。

 献花はいつまで続けられるのだろう。悼む気持ちは徐々に薄れていくものだ。悲しいけど、人間とはそういうものだ。いつまでも続けられない。続けるべきでもない。花が途絶えたとき、霊はどこに行くのだろう? そもそも、亡くなった人はいまでもそこにいるのだろうか?

 そこに私はいません。眠ってなんかいません。そうだとしたら、あなたはいまどこにいるの? 風になんかならないでほしい。それが墓じゃないのだとしても、どこか決まった場所にいてほしい。その存在をはっきりと感じさせてほしい。

 花の鮮やかな発色は、あの世からでも識別しやすいように、なのか。

 僕が死んだら白い百合の花がいい。夜でも光って見えるくらい、真白で、清廉な、百合の花。

鳥の言語、獣のような性交、退屈なコード進行

 食器を洗う。掃除機をかける。野菜を切る。洗濯物を干す。ボタンを縫いつける。粘土を練る。文字を写す。塔を建てる。皮膚を剥がす。夢中になればなるほど心は透明に。無心・放心の体は視神経だけが機能して、脳は、和らいだ。ニューロンがほぐれてすっきりリラクゼイション。

 体調の、悪くなかった日。なかった。一五歳の年に一日だけあった気もする。ギター、鳴ると渦巻のように目が回る午後としての音色。低い午後もあれば高い午前もあるさ。BmからG、A、そしてDへと移りゆくコード進行を君は退屈だと笑った。手を動かすことは時間を捻じ曲げることだ。手仕事によってのみ僕たちは相対性理論の破壊可能性。壊すことは、作ることだ。作ることが壊すことであるように。エリーゼのためでもなく、誰のためでもなく。

 夜が加速する。僕は、僕が、この部屋に置き去りにされた。肩凝りの痛みだけが数メートル先で意気揚々と気張っている。それがどうした? 痛みは誰のものでもなかった。共有物だった。記憶の共有? だとしても、偽のそれを僕たちは掴まされている。心を放せ。言語から離れろ。それは動物になることではない。鳥には鳥の言語があるように、人には人の乳酸菌。獣のような性交。生殖は言語を超えてゆけ。(ゆった。Your letter. )代償として赤子は言語を習得するはずだから。

約束された誤読、意図された誤記

 しばらく日記を書いていなかった。椅子を新しくした。気温が上がってきて、気づいたら夏になっている近未来。もうすぐそこだ。生活、という死ぬために生きている時間の一方的な流れを、無意識のうちに是認している。その怖ろしさは夜に顔を覗かせる。鏡の中の自画像に語りかけるとき、それは理想的な他者として現れる。自分自身と性交する夢を見た朝。唾液に含まれる苦みを、排水溝へ流した。隠した。

 葛藤のない物語を書く。葛藤のない人間は存在しない。が、葛藤を葛藤のまま描くのでは不十分だ。というより、不必要だ。それがそのようにあることをそのままの現象として描くこと。言葉にしてみると簡単だが、案外難しい。理由なき身体が立ち上がったとき、それは理解不能な他者との「出会い直し」になる。

 気づいたら産まれていた。誰しもが。ならば生きることもまた、「気づいたらそうしている/いた」の渦中として描かれるべき、なのか。葛藤なき淡麗な機械としての人間。しかし、一つ一つの行為はそのように読み取られない。物語が常に「約束された誤読」を引き起こす疾病だとしたら、作者もまた「意図された誤記」の発生源たる病原体として、明後日の方向へずれ続けるしかなくなる。明日ではなく、明後日へ。昨日のようだった今日を明後日へと放擲する。一段飛ばしで。桂馬のような動きで。

佐川恭一『アドルムコ会全史』感想

 佐川恭一の新刊、『アドルムコ会全史』。今作も随所に佐川節が炸裂する傑作である。以下、感想を述べていく。

 

 (ネタバレあり。ご注意ください)


「アドルムコ会全史」
 表題作。数ページごとに思わず噴き出してしまいそうな(実際に何度も噴き出した)フレーズがそこかしこに散りばめられている。岸田のもとにニューヨークヤンキースのスカウトが訪ねてきたところや、ホテルのフロントが全盛期の西武カブレラ似の男であるところなどは、不意をつかれ、しばらく笑いが止まらなかった。岸田の「なんの練習もしていないのにいきなり剛速球が投げられる」というくだりは過去作「ダムヤーク」の中にも登場するのだが、手を変え品を変え繰り出されるためまったくマンネリを感じさせないどころか、佐川作品にお決まりの鉄板ギャグへと昇華されている。毎回新鮮な気持ちで笑ってしまう。
 全篇を通じて超絶ナンセンス展開、不謹慎なブラックユーモア、不条理ギャグにまみれている本作だが、もちろん佐川作品の魅力はそれだけにとどまらない。野球や美術など数々の驚異的な才能を示しながら、本人はまったく興味を示さずただただ公務員試験合格という対象xに向かって没頭する岸田が「おれは人間には欠乏が必要だと考えている」と語りだす場面などに代表されるように、本作には随所に「生きるとはなにか?」「人間とはなにか?」という普遍的なテーマに関する作者の鋭い考察と社会批評が散りばめられている。筆者は佐川恭一の作品を読んでいるといつもビートたけしの「振り子理論」を思い出す。めちゃくちゃふざけられるやつだけが、めちゃくちゃな真面目をやれるのである。

 

「キムタク」
 題名で爆笑。朝起きたら○○になっていた、という定番の変身譚には二種類あって、一つは有名なカフカの『変身』タイプ、もう一つは、○○になったことでなにもかもがうまくいき、人生絶好調、仕事も恋愛も思い通りにいってバラ色の日々、しかしそううまくいくわけもなく、最後に手痛いしっぺ返しが……という筋書きが定跡であるように思う。本作の場合は、その○○が「ロング・バケーション(またはラブ・ジェネレーション)の頃のキムタク」であるというZ世代にとってはなんのこっちゃな設定(ちなみに筆者は佐川さんとほぼ同世代なのでロンバケ(ラブジェネ(またはビューティフルライフ))の頃のキムタクが死ぬほどかっこいいことは理解できる)と、キムタクになったことですべてがうまくいくかと思いきや、逆に「ロンバケ時のキムタクなのにモテない」という自らの内面の劣等を突きつけられつつ、最後に堀越のり的なささやかなる希望を期待させる、という筋書きになっており、定跡を裏切る巧みな構成と言える。個人的なことで言えば、筆者も堀越のりのことは好きだった。中3のときに付き合っていた彼女(ゆうこちゃん)に似ていたからである。


「パラダイス・シティ」
 過去作「舞踏会」のスピンオフのような(あるいは「パラダイス・シティ」のスピンオフが「舞踏会」なのかもしれない)ディストピア群像劇。なにが悪でなにが正義なのか? それは立脚する視点によって姿かたちを変えうるものなのではないか? 誰もが一度は思いを巡らせたことのあるテーマを過剰な戯画化によって描き出した怪作である。K市役所の幸福税課を舞台に、二四名の課員たちの欲望や思惑が複雑に絡み合いつつ、交錯する。しかしそれらは決して表立って口にされることはない。登場人物の多くは清々しいほどのクズばかりで、読んでいて苛立ちを覚える場面ばかりである。ただ、描かれ方が過剰であるだけでシンパシーを覚える箇所も多々あり、簡単に「クズ」とばかり呼べないのもまた事実だ。もちろん、それらの人物造形には意図がある。悪趣味な作者がわざと読者を苛つかせようと思ってそうしているのではない。苛立ちは、ガソリンになる。読者が思わずページをめくってしまう負の力を駆動させるための燃料として、それらは機能する。我々読者はその陰鬱な負の力に抗うことができない。
 終始観察者の立場として冷静な目で職員たちを眺める篠原課長の視点が不気味で、なにか黒幕のような立場なのではないかと読み進めながら考えていた。それは終盤の「私がS評価を付けたのはあなただけなんです」の一言に集約され、まるで炎症を起こし赤く膨らんだ出来物が破裂し、大量の膿が嫌な臭いを放ちながら飛び散ったかのような黒いカタルシスをもたらす。クズはみんな射殺された。そして唯一の良心であった川添主事は救われた。が、果たしてそれは本当に正義なのか? 民主共栄党の目指す道徳を主軸としたユートピア構想は人間を真の幸福へ導くのか? もちろん、本作における結末は作者による痛烈な皮肉にほかならない。
 確かに、ムカつくやつは死んでほしいし、いっそ殺してしまいたい、と思う。誰しもが思っている。ただ、その願望があまりにも簡単に成就し、バタバタと人が殺されていく世界を心の底から求めているかと言えば、決してそうではないはずだ。もしそういう世界が実現したとしたら自分は川添主事のように生き残れるだろうか? 答えはノーだ。処刑される側も処刑する側も、みな同じような顔をしている。はたから見ているぶんには見分けがつかない。だからこそ、正義と悪を単純に区分けすることは怖ろしい。本作は、そのような二項対立図式に凝り固まりがちな現代への、研ぎ澄まされた先鋭的問いかけなのである。

 

「夏の日のリフレイン」
 原題の「男根のルフラン」から、本書に収録されるにあたり「夏の日のリフレイン」と改題された。ルフランはフランス語で「refrain」つまり英語の「リフレイン(refrain)」(繰り返す)と同じ意味の言葉である。タイトルが示す通り、このフラッシュフィクションは循環構造を持っている。同じことの繰り返しが、A、Aダッシュ、Aダッシュダッシュ、と続いていくことを示唆しつつ結末を迎える。夏のある一日(「エンドレスエイト」を思い起こさせる)のその後の展開は、物語の外部へと「ひらかれている」。……な〜んて分析をすること自体が不粋で、なにも考えずガハハと笑って楽しめる(いい意味で)馬鹿馬鹿しい作品である。

 

ブライアンズタイム
 始めから終わりまで一切改行なしのスタイルは過去作「受賞第一作」を思い起こさせる。こういった作品は往々にして場面転換に無理が生じやすいものだが、そこはさすが佐川恭一、なめらかな筆致でシーンとシーンを繋ぎ合わせ、違和感なく見せるのが抜群に上手い。本作で最も特徴的な要素は「関西弁」と「登場人物の名前」の悪魔合体である。筆者はこれを「ホットペッパー方式」と名づけた。かの有名なアテレコCMだ(ご存じない方は「ホットペッパー CM」で検索してみてください)。バリバリの外国人の名前を冠した登場人物がコテコテの関西弁を話す、という方式は過去作「マルドレットの人々」にも見られるものだが、本作はさらに完成度が上がり、洗練された仕上がりになっている。中でも、ショーン・ジェイコブズ→ショー平、マコーマック・マクシミリアン→マコっちゃん、など、日本語式に改められた愛称は出てくるたびに声を出して笑ってしまった。芸が細かい。本当にいろいろな角度から楽しませてくれる。
 「ホットペッパー方式」も相まって物語全体がコントのような雰囲気を帯びる本作だが、いわゆる非モテ問題やパワハラ問題や介護問題など、内容にはシリアスな側面も多い。そこで繰り広げられるのは、言ってみれば人間の持つ「多面性の連鎖」のようなものだ。人間はさまざまな側面を持っている。ある一つの視点から見た真実が、別角度から見たときまったく違う様相を呈している、そしてそれらはグーチョキパーの三竦みのように、ある人にとっては善だがある人にとっては悪となりうる性質を秘めている。佐川恭一はそのような「多面性の連鎖」を、多くの登場人物を複雑に絡ませながら一つの完成した世界として描こうとする。あれだけの人物を登場させながら破綻することなく話を成立させ、さらに鋭く社会を批評しつつ、それでいてセンスの塊のようなギャグをこれでもかと連発してくる本作は、もはや芸術の域に達していると言っても過言ではない。

 

 以上、拙いながら『アドルムコ会全史』の感想を書いてみた。いまはまだ「テレビでは一切見かけないけれども地下ライブを打てばチケット即日完売のカルト芸人」みたいな立ち位置の佐川恭一だが(失礼な言い方ですみません)、昨今の飛ぶ鳥を落とす勢いの活躍を見るに、ノーベル文学賞を受賞する日もそう遠くないのかもしれない。
 佐川さんのこれからのご活躍を心より祈念しています。

アバターの静止する不自然な数秒

2021/12/20

 

 肌を偽装する。そのたびに、思い出す駅は無人だったような気がするのだ。

 無尽液。

 それは滴りの途上にあって、第二次性徴を大事に成長と読み違えた国語式朗読タイムを、舞台にした、演劇の、タイトルを公募するならまだしも人工知能に頼り切りなんて愛が感じられないよ。

 真実の愛は液の分泌量に比例している。

 って、

 君は言うけれどそんなの大嘘だ。

 だって、大腸を、切除された曽祖父は笑顔のまま苦しんでいたのに窓からの光はいつだって、

 あぁ!

 いつだって!

 あんなにも!

 

 Hi-Fiだった。

 

 湖は、

 ざらっと、

 低画質。

 

 (注:よく掻き混ぜてくださいね(^_^;))

 

 ぼ、僕を嘘つき呼ばわりする曇りガラスの内部に秘匿された伝説の子宮が偽りであると、静脈を流れる濁った赤黒いそれをカサカサの性器に塗りたくらない保証なんてどこにもないのだと、「私たち、いつから、こんな疑似ポルノだらけの街並みを平気で素通りできるようになったんだろうね?」

 

 

 いままで、描写しようとすると頭の中に描いた景色をそのまま言葉へ移そうとして、でもうまくできなくて四苦八苦していた。しかし、前作の作業過程である気づきがあった。つまり、登場人物の主観がまず先にある。その主観=視点を通じて、物事を言葉にしていく。

 例えば壁があるとする。壁紙には模様があって、質感があって、温度感とかそういうのがある。乳白色で、ざらざらしていて、冷たい感じがする、云々。それを、なんというか客観的事実として捉えた上で、言葉にしようとするとうまくいかない。まず登場人物がそれを見ている、という作者と作中人物の関係性を忘れないこと。壁を見ているのは、作者である自分ではなく、登場人物なのだ。アバターとしての登場人物に乗り移った自分がそれを見るとき、言葉は純粋な作者のものではなくなる。アバターがまずなにを思い浮かべるか。そこを立脚点にすれば、言葉は自然と連なってくる。

 前作はそれが一文ごとにできていたから、あれだけの量を二ヶ月という短期間で仕上げられたのだろう。というより、世間の書き手らは自然にそれをしているのだ。気づいていないのは自分だけだった、という単純に自らの愚かさに気付かされただけという気もする。

 で、その上で物語を進行していったから、前作はそこまで壮大な話でなくとも300枚近くまで達した。一つ一つの描写がしっかりしているから、そう簡単に話がぽんぽん進まない。そう、そうだ、そこもまた一つの発見だった。物語内と現実では秒針の進み方が違う。それもまた、当たり前だけどいままでおろそかにしていた部分だ。

 小説は映画のようには時間が進まない。小説内の一秒は、現実の一秒とは幅が大きく異なる。会話と地の文の量のバランスも、その気づきによって自然と改善された。いままでは作中で長話が続いても気にならなかったが、描写がしっかりしてくるとある特定人物の独演会的な長広舌には違和感を覚えやすくなる。途中に地の文を挟むことで、小説内の時間進行は安定する。むしろ、あえて時間を鈍化させることで、小説になる。

 二人の人物が会話していたとして、一人の発話にもう一人が応答するまでの時間を考えてみる。それは時間にして0コンマ数秒の世界だが、小説では地の文が挟まる。そこで相手の表情だったり、周囲の環境、温度、風の感じ、あるいはなにか音がするとか、匂いが漂ってくるとか、相手の発話を受けて人物がなにを考えたとか、そういうことが挿入される。

 でも、現実は違う。地の文を読み上げているあいだに、すでに相手の発話は始まっている。そんなことを考えている暇はないはずなのに、小説ではそれが当然のこととして受け入れられる。

 「あとから振り返ってみれば確かにそういうことだった」を、あたかも「リアルタイムでいままさにそうである」のように見せている。それが小説という形式の特異性なのだ。古今東西どの小説でも、それは自然に行われている。

 「私、そんなこと知らないよ」キョウコは眉間に皺を寄せ、唇をほとんど開かずに言った。私は、予想していた答えとは違うキョウコの言葉を聞き、背中に、果汁100%ジュースみたいな粘り気のある汗が流れるのを感じた。「知らないわけないでしょ。じゃあ、なんで、あのときキョウコは……」それ以上、言葉が出てこなかった。キョウコは俯き、じっと足元を見ていた。干からびたミミズの死骸に蟻が群がっていた。

 例えばこういうシーン(カット)があったとする。単純に考えれば、「キョウコ」の発言から「私」の発言までに流れた時間は、どれほど長く見積もっても数秒程度だろう。5秒あればかなり長いほうだ。

 その長くても5秒程度の時間に、挿入された地の文を通常のスピードで読みきれるかどうか。いま試しに読んでみたところ、11秒かかった。少し早めに読んでも8秒程度はかかるだろう。つまり、そういうことなのだ。

 小説における地の文の描写を一字一句そのままモノローグとして挿入した映画、といえばわかりやすいかもしれない。そんなものがあったらテンポが悪すぎてとてもじゃないが観ていられないはずだ。しかし小説内ではそれが当然のこととして成立していて、逆に地の文の描写が少なければイメージは喚起しづらくなり、作品そのものがやせ細ってしまう。

 

 

 

探偵は過度に死んでいる

2021/12/12

 

 あの丘を、越えようと思っていた。白い円筒の建物は蹴りたい。風の気配を感じ取って消毒を忌避したのだった、そのような、あえて防がない目的の服。売っているが、欲しいわけではない幸運の数々。

 余り物にはないものを探していた。ずっと、きっと、明日から今日まで失っていた拾得物を横領した。っていう記憶は、うん。ないんだったな。ないことに、したんだった。忘れるより罪なことはないんだった。

 物は岩のようにも、あるいは文法のようにも、触ることができる。のに、疑ったばかりに、あなたの生殖器官、すべっすべの、きやっきやで、損だよ。得ばかりしている誰かを憎むより眼の前のお祈りだよ。

 いつも窓から見ていた円筒の白さを、給水塔に見紛ったのは僕だ。

 あなたが誰よりも殺傷能力だった当時からの僕状の固形物だ。

 夢の中の寝言だったオリジナル言語を許可なく翻訳された朝。間違ったそれを、誰が、確かめるというのか。誤解は常に天然水みたいな凄惨。カリッ。ふわもち〜。いった、だっき、マウス。過度に死んでいる。

 チのような色をした消毒液が二階から滴っている。それを艶のない子供が意図的にみだりに。

 あーあ。

 もう取り返しがつかないのに。

 

 すべての小説は推理小説である、という言い方はある意味可能で、そもそも一人の人間の人生が謎だらけなのだから解き明かすためには推理が必要になる。作中の人物らは架空だ。が、非実在青少年らとて、人生は人生である。それらを描き出そうとするのならばサスペンスは必然だ。

 そこで、読者は探偵になる。いや、作者すら、探偵にならざるをえない。作者は神様ではない。一見矛盾するようだが、作者はそれを書いている当人でありながら、同時に、登場人物らの謎を解き明かそうと四苦八苦している。作品の規模によっては、八苦のみならず十二苦ぐらいはするかもしれない。

 

 2021年、改めて数えてみると合計で5作品、原稿用紙換算で650枚ほど書いた。特別多いわけでもない、というか、むしろ少ないほうかもしれない。でも自分としてはよく頑張ったと思う。5作品、多種多様だったがそれぞれにいいところがあった(悪いところもあった)。来年もガリガリと精力的に書いていきたい。