霊のいる場所

 夜。一一時四二分。自転車を漕ぐ。恋人の家から帰る。ガードレールの脇に花。今日もある、と思う。この前もあった。その前も、その前の前も。新しく、鮮やかで、それゆえに場違いな花束。外灯に照らされ、やけに明るく見える花びらの発色。

 半年ほど前、立て続けに二件の死亡事故が起きた。片側二車線道路。二つの現場は数百メートルしか離れていない。どちらも夜中だった。若い人が車に轢かれて死んだ。

 花束。酒の缶。清涼飲料水のペットボトル。雑然と積み上げられた供え物の山。二つの現場のうち、一方はすぐに途切れた。歩道の血痕だけが残された。生々しい血の跡はいまもなおどす黒く染みつき、事故の悲惨さを無言のうちに語り継いでいる。

 もう一方の現場には、半年経ったいまでも献花が続いていた。誰かがそこに通い続けている。一人で。いままさに茎から切られたばかりの、新鮮な花束を抱えて。

 骨は墓に納められたはずなのに、なぜ? 僕はそこを通るたび、霊のいる場所について考える。私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません。昔、そういうヒット曲があったことを思い出す。

 半年間、花を手向け続けたその人もまた、霊のいる場所について考えたに違いない。墓は確かに堅固だ。動かない。いつもそこにある。だから、誰もが訪ねることのできる慰霊の標しとなる。世代を超えて霊を慰めることができる。

 ただ、変な言い方になるが、かつて生きていた故人が最後に息をしていた場所は、間違いなくその人が死に至った場所、つまり今回の場合で言えば事故現場だ。墓ではない。

 献花はいつまで続けられるのだろう。悼む気持ちは徐々に薄れていくものだ。悲しいけど、人間とはそういうものだ。いつまでも続けられない。続けるべきでもない。花が途絶えたとき、霊はどこに行くのだろう? そもそも、亡くなった人はいまでもそこにいるのだろうか?

 そこに私はいません。眠ってなんかいません。そうだとしたら、あなたはいまどこにいるの? 風になんかならないでほしい。それが墓じゃないのだとしても、どこか決まった場所にいてほしい。その存在をはっきりと感じさせてほしい。

 花の鮮やかな発色は、あの世からでも識別しやすいように、なのか。

 僕が死んだら白い百合の花がいい。夜でも光って見えるくらい、真白で、清廉な、百合の花。